卒業生とその進路

脳の形態学・計算論に基づく柔らかな導電性ポリマーネットワークの構成論に関する研究


萩原 成基

2023 年度 卒 /博士(情報科学)
2021年度〜2023年度: JST戦略的創造研究推進事業 ACT-X研究員, 令和4〜5年度 日本学術振興会特別研究員

博士論文の概要

本研究は,次世代の人工知能(Artificial intelligence: AI)処理を担うマテリアル知能の構築に向け,材料科学の観点に基づく化学実験と情報科学の観点に基づく理論研究を組み合わせた基礎研究と位置付けられる.

脳内情報処理を計算機上でシミュレートする従来のAI研究のアプローチに対し,材料固有の物性を巧みに利用することで人工脳が物理的にエミュレートされた「マテリアル知能」の実現に関する試みは近年数多くなされている.例えば応用研究のレベルでは,半導体や有機材料ベースで構成される抵抗変化メモリが,これまでAI技術の発展に大きく貢献してきた人工ニューラルネットワーク(Artificial neural network: ANN)の物理実装の枠組みにシナプス素子として組み込まれることで,AI処理の高速化や省電力化を可能としてきた.また基礎研究のレベルでは,分子ネットワーク内部の非線形な電気伝導ダイナミクスを利用したリザバー計算や神経スパイク模倣素子など,多岐にわたる材料の脳型計算への利用可能性が見出されつつある.

マテリアル知能の実現に向けた従来のアプローチにおける大きな課題として,(1)必要な材料及びデバイスを予め作り込んでおく必要があること,(2)その応用がANNの物理実装という工学的な枠組みに留まっていること,の2点が挙げられる.これを踏まえ本研究では,外部刺激を通じてその場形成可能な導電性ポリマーネットワークに着目し,発達過程における脳神経系の形態に学んだ3次元ネットワークのその場成長・学習を実験的に試みた.回路を予め作り込んでおくのではなく,材料の自己組織的な成長を通じて真に必要な情報処理回路のみをその場で形成させる点において既存研究と一線を画しており,回路の実装面積や形成プロセスの簡略化といった工学的な有用性も期待できる.また,本研究では既存のANNに代わるAIフレームワークとして,計算論的神経科学の分野で近年大きな盛り上がりを見せている自由エネルギー原理を採用し,脳の計算機構により即した高次の知覚演算システムをマテリアル知能として実現できないか検討した.これらの形態学的及び計算論的アプローチの融合を図り,生体へ貼り付けたり埋め込んだりすることのできる有機材料特有の物理的なフレキシビリティに加え,脳のように柔軟に知覚や学習を行いながら周囲の環境に適応できる柔らかなマテリアル知能の実現可能性を見出すことを本研究の目的とする.

脳の形態に学ぶアプローチとして,脳の発達過程においてみられる軸索誘導と呼ばれる脳神経ネットワークの形成過程に着目し,モノマー前駆体溶液中での電解重合成長により得られる導電性ポリマー細線の電極間配線を用いて,これに学んだ脳神経様ネットワークのその場形成を実験的に実現できないか検討した.その足掛かりとしてまず,マイクロ電極ギャップ間への1次元的なポリマー細線の液中配線を用いた電極間抵抗制御によるシナプス機能模倣を試みた.細線の配線本数や径,導電性といった物理化学的変化を外部電圧制御によって誘起し,長期増強及び短期可塑性といったシナプス機能を電極間抵抗変化により模倣し得ることを示した.

続いて,脳内で無数の神経細胞が織りなす階層的な3次元近傍結合構造に学び,導電性ポリマー細線の複数電極間高次元配線を試みた.2次元平面及び3次元立体空間上へ複数の電極を液中配置し,これらへ印加する重合電圧を制御することで所望の電極間へのみ選択的に細線を配線する技術を初めて確立した.これにより,情報処理に必要なネットワークを軸索誘導のごとく一からその場形成し得ることを示した.また,ネットワーク形成後の電極へ外部電圧を印加することでゲート効果による細線の導電性変化が誘起され,電圧スパイク印加に伴う側抑制的な抵抗変化やリザバー計算等に利用可能な非線形応答が観測された.これらの発見は,形成されたネットワークが生理学的にも妥当な情報処理能力を有していることを示唆している.

脳の計算論に学ぶアプローチとして,脳機能を変分自由エネルギー最小化の観点で統一的に記述可能な自由エネルギー原理に着目し,知覚や学習を本原理に基づき実行可能なマテリアル知能の理論モデルを構築した.脳の計算論的なモデルとして古くから知られる予測符号化を変分自由エネルギー最小化の観点からネットワークグラフの形で再記述し,近年のニューロモルフィック工学において提案されているリザバーや拡張Direct feedback alignmentといった,生理学的にも妥当なモデル及びアルゴリズムをこれに適用することで,マテリアル知能としての実装にも適した予測符号化ネットワークを構築した.入力された感覚信号に対する予測タスクを通じ,系全体の変分自由エネルギーを最小化しながら内部の信念を更新することで予測信号を生成可能な知覚演算システムを,マテリアル知能として実現し得ることが示された.また,変分自由エネルギーが定性的には予測の不確実さを表していることに着目し,これを異常検知のような弁別課題における尺度として用いることで工学的な応用が可能であることも示された.